ようやく修士論文を書き始めました。
これまで書いてきた計画書やメモを統合しつつ、第1章を文献と照らし合わせながら埋めていってるところです。まだまだ1ページにも満たない分量ですが、来週の金曜日(5/31)には一章の第一ドラフトを書き終えるつもりです。
今週末よ来週末は学会シンポジウムなどが続くので、平日にどれだけやれるかが勝負です。
昨日は創刊したばかりの雑誌『社会運動史研究』1号「運動史とは何か」を読んでいました。どの論考も、これまで私が悩んできたことや問題意識と重なるところがありました。「史観」の問題(旧来の運動と新しい運動を人為的に分割する「新しい社会運動史観」の批判など)や運動を「勝ち負け」で語ることの問題など特に興味深く読ませていただきました。
「勝ち負け」の問題に関しては、歴史学が長く関心を寄せてきた戦争と対象的であるとも思いました。つまり、戦争は登場人物や勝ち負け、目的が「比較的」はっきりしているので研究対象にされやすいところもあるのかと思います。当然、「実はそうではなかった」という視点で同じ対象で新しい研究が生まれるので、「はっきりしているようではっきりしていない」というのが正しいのでしょう。
小杉亮子氏が学生運動の参加者に加えて、参加をためらったり運動に批判的だった層にもインタビューをした経験についてこう述べています。
立場が違う語り手によるこれらの語りは、一九六八年の東大闘争に関わった学生たちには共通して、第二次世界大戦を身近なものとして理解することを促す経験があったことを筆者に教えてくれた。
「『史観』の困難と生活史の可能性」p41
ここでは社会運動という経験が戦争に置き換えて語られています。中学・高校の教科書で記述される内容で想起される「戦争」と、その後様々な対象を交えた社会史的な戦争の研究ではその性格は異なります。様々な出来事や人々の行為の関係性が見方によって大きく変わるのです。
小杉氏はなんども学会の発表などで「他にもっと大事なことがあるのでなぜ社会運動を研究の対象とするのか」と問われたといいます。私も学会発表は未経験ですが学内の発表の場で似たような質問や意見を投げかけられたことがあります。その詳しい意義については本誌の小杉氏の論考を参照していただきたいのですが、私は「なぜ社会運動を研究するのか」というのは「なぜ戦争を研究するのか」に根源的に近いのではないかと考え始めています。
特にラテンアメリカではヨーロッパ諸国のような外国に対する大規模な戦争が国家形成に関わるといった経験とは違って、既得権益を元にした政治体制を脅かす政治思想や民衆に対する攻撃が国家を強固にしてきた歴史があるため研究対象としての社会運動の重要性は特に高いと言えるのではないかと考えます。